オンライン展覧会 Online Exhibition

第209回 芸術鑑賞講座

齋正機展〜ふるさと・ふくしまとともに〜

令和2年10月6日(火)〜11日(日) 9:30〜16:00

郡山女子大学・建学記念講堂ギャラリー

 

主催:学校法人郡山開成学園

特別協力:齋正機後援会

協力:東邦銀行、喜多方市美術館、福島県労働保健センター、福島民報社

企画協力:サイスタジオ

 

 

 上記の日程で開催された齋正機展は、一般の方もご入場いただける展覧会として準備されてきました。しかしながら、新型コロナウイルスの感染拡大防止のため、入場者を郡山開成学園関係者(郡山女子大学・短期大学・附属高校・附属幼稚園の皆様及び教職員・家族会の皆様)に限定いたしました。

 

 そこで、齋正機後援会並びにサイスタジオは、主催である郡山開成学園のご許可をいただき、保護者の皆様をはじめ多くの一般の方々にも齋正機展〜ふるさと・ふくしまとともに〜」をご鑑賞いただけるように、「オンライン展覧会」を実施いたします。

 

 このページには、展覧会の内容全てが掲載されています。

 

 それに加えて、「オンライン展覧会」特別企画として、

1.一部文章に英訳を付けました。どのように英訳されているか、日本文と比較してみて下さい。

2.「ふくしま物語〜桃源郷59の願い〜」をもとに制作した映像作品を掲載しました。

3.齋正機さん並びに後援会が皆様の質問にお答えするコーナーを設けました。

 

 

※このページを含む当ホームページの全ての画像および文章の無断転載はできません。

転載や引用をご希望の方は、

masaki.sai.kouenkai@gmail.com 

までご連絡ください。

 

※作品画像の「Friends of Masaki SAI」は実物の作品には含まれていません。

      

 

※お使いのブラウザ(Microsoft Edgeなど)やバージョンによっては、文章等が見にくい場合がございます。

最新バージョンに更新されると、改善されることがありますのでお試しください。

 

 

郡山女子大学短期大学部副学長より、

ひとこと(展覧会リーフレットより)

 

 齋正機さんの絵には硬い輪郭線はありません。色の面が柔らかくつながる境目のない絵です。

たとえば、雪ウサギが浮かび上がる山は稜線に雲が混じり合い、野馬追の草原は地平線が霞んで、何となく空につながります。

電車の向こうのピンク色の帯が花盛りの桃の並木だから、画面下のピンク色のかたまりは大きな桃の木の花盛りに違いない。

その何となくわかる感じが心地よくて、しばし見入ってしまいます。

 

 齋正機さんは東京藝術大学で日本画を学ばれ、洋画の登竜門である昭和会展で最高賞を受賞されたとのことです。

日本画の画材を使っても、パステル画に見えたり、油絵に見えたりします。

きっと日本画と西洋画の境目など気にせず、描きたい世界を描いておられるのでしょう。

だからこそ、私たちも安心して、暖かく柔らかい穏やかな世界に入り込んでいけるのかもしれません。

 

 建学記念講堂の展示ギャラリーで実作と向き合う時は、その大きさと空気感をしっかりと体感してください。

そして展覧会終了後は、齋正機後援会HPの「オンライン展覧会」を親しい方々と御覧になって、それぞれの絵から感じ取った素晴らしさを、深く語り合ってください。

 

 本学の芸術鑑賞講座として齋正機先生の作品を拝見するのは、第144回「ドコカノ風景齋正機展」、第190回「公募ふるさとの風景展」に次いで、三回目です。

第144回のリーフレットに名誉学園長、関口富左先生が書かれた言葉を再録し、学生生徒の皆さんにお伝えします。

 

「目の前が広く、高く、柔らかに、しかも美しく展開され、心豊かな誘いを受けた思いに感動しました… ゆっくりとこの作品と話し、心豊かなときを頂きましょう…」 

 

                                                                                                    齋藤美保子

 

 

 

齋正機ご挨拶 

 

一説によると…

 昔々、福島盆地には湖沼が多く、盆地の真ん中の小高い信夫山は島のように見えた。

そこに吹き付ける“吾妻おろし”の風。その情景はやがて“吹島”という地名になった。

次第に縁起良い漢字に変わって現在の“福島”になったらしい。

そういえば、僕の生まれ育った記憶も風と共にあった。

 

(ウ~、風が強くって、前に進めね~べ)

 真冬の学校からの帰り道、そんな目に何度か。福島盆地には奥羽山脈からの冷たい西風“吾妻おろし”が吹く。

毎日ではないまでも、自転車通学だった中学、高校時代は何度も苦しめられた。

だからこそ、やっぱり春は桃源郷だった。

 

(鼻づまりでも匂いは感じるなあ~)

 春の帰り道は花が一気に咲いていた。梅、桃、桜がたて続けに。そして名前のわからない花、花。

あぜ道を歩くと土と花と草のすべて混じった甘苦い匂い。思わずクシャミをしながら帰る。

そんなことを繰り返す日々の中で田植えされた苗が緑の絨毯に変わっていく。

 

 (盆地だがらな。今日もまだ35度もあっぺ…)

 夏は無風で思いっきり暑かった。日陰の道を通って帰るか、それとも小川の近くを帰るか、どちらを選んでも汗だくだ。でも夏夜に寝苦しいのはせいぜい一週間程度だった

帰り道に少しずつ赤とんぼが増えていくと、涼しい時間も多くなり田んぼは濃緑が黄色を帯びるのだ。

 

 (黄金がキラキラしてるなあ)
 秋風に揺れた稲穂がこうべを垂れて、やがて収穫される。そうなれば田んぼを横切って帰ることができるん
だ。

途中、ゴムボールで野球をしながら、トノサマバッタを追いながら。そして日に日に風が出てくる。

(ずいぶん、風強いなあ。明日、吾妻山から雪が吹っ飛んでくるんでねえべか!)

 

 こんな感じの風の1年を20歳まで過ごした。

それは福島を離れて35年たっても身体に染み付いた記憶…

だから僕の絵にはいつも風が吹いている。 

 齋 正機  


齋正機略歴

 

1966年  福島県福島市生まれ。本名・斎藤正機(さいとう まさき) 福島市立森合小学校、福島市立第四中学校卒業

1984年  福島県立福島東高校卒業(2期生)
1992年  東京藝術大学美術学部絵画科日本画専攻卒業・同大学院修了(1994年)

1998年  ※ふるさとの風景展(喜多方市美術館主催)最優秀賞受賞

2000年  ※ギャラリーマスガ(須賀川市)にて初の個展(2004年も開催

2001年  ※第55回 福島県総合美術展にて福島県美術賞を受賞
2003年  洋画の登竜門である昭和会展(日動画廊主催)にて、
無所属の日本画家として初めて最高賞の昭和会賞を受賞。
2004年  ※第144回 郡山開成学園芸術鑑賞講座として「ドコカノ風景 齋正機展」
2006年  日動画廊(東京・名古屋)にて「残滓牧景 第一章」
2010年  西武池袋にて「残滓牧景 第二章 ~M氏ノ運転シタ風景ノ記憶~」
2011年  箱根・芦ノ湖 成川美術館にて「記憶ノ散歩ノ色」
              ※
東邦銀行カレンダーに作品採用、以後2020年で10年目
              
東邦銀行県庁支店にて「故郷の風景原画展」

2013年  日動画廊(東京・名古屋)にて「残滓牧景 第三章 ~拝啓 吾妻小富士様~」

2014年  伊達市梁川美術館にて「記憶ノ散歩ノ色」

              岡山県瀬戸内市立美術館にて「やさしい日常の風景」
2015年  箱根・芦ノ湖 成川美術館にて「帰り道シリーズ」現在までに成川美術館には、約60点所蔵されている。
2018年  ※齋正機後援会発足
2019年  
とうほうみんなの文化センター(福島県文化センター)にて 「齋正機の世界展~ふくしまものがたり~」

              ※喜多方市美術館にて「齋正機の世界展~あいづものがたり~」
              凸版印刷・トップカレンダーに作品採用、2021年で3年目
2020年  佐藤美術館(東京都新宿区)にて「齋正機の世界展~ふくしまものがたり~」 10月21日~12月13日まで開催予定。

 

※印は福島県に関連する展覧会や事柄です。

  

その他、個展、グループ展、カレンダー採用等多数。 詳しくは、齋正機ホームページをご覧ください。

展覧会企画者よりご挨拶(会場案内より)

 

 「齋正機展~ふるさと・ふくしまとともに~」へようこそ!

本展覧会のキュレーター(※)を務めました齋正機後援会事務局長の齋藤洋之です。本展覧は通常の展覧会と次の点で大きく異なります。

 

1.画家の後援会が全面協力

 本展覧会は、齋正機後援会の全面的な協力により開催されています。画家の後援会は極めて珍しく、全国でみても、ここまで活動している画家の後援会はまずありません。今回出展された多くの作品が後援会に関わる方々の所蔵です。

 

2.画家の特色を前面に

 通常の展覧会では、セクション毎など、所々に解説が掲示されていますが、今回はそれに加えて齋さんの特色の1つでもある絵画と文章の融合に挑みました。

 

3.誰にでも観やすい展覧会を

 作品名や、その解説などの文字を通常の展覧会よりも大きくし、UD(ユニバーサルデザイン)文字を使用することにより一人でも多くの方に快適にご覧頂けるよう工夫しました。その他、教育施設での展覧会として、作品制作過程の一部が分かるような展示など、お楽しみ頂ける様々な工夫をいたしました。

 

4. 安心して鑑賞するために

 新型コロナウイルス対策として、通常の展覧会よりも、作品と作品の間を離して展示しました。また、会場に長時間、留まらなくても良いように、齋正機後援会ホームページでも解説が見られるよう「オンライン展覧会」を開催します。作品をじっくり鑑賞していただき、解説は後からご自宅等で読んでいただければと思います

 

※キュレーターとは・・・日本では美術館や博物館に勤務する学芸員を指すことがありますが、今回は本来の意味である「展覧会企画者」として使用いたします。

本展覧会のキュレーター・齋藤洋之は、齋正機・斎藤倫子夫妻の監修の元、展示作品の選定・構成・解説など本展覧会の全てに携わっています。

 

第1章

高校・大学時代

 

 齋正機は幼少期から絵を描くのが好きで得意であった。しかし、福島東高校1年次には画家になるなど考えもせず、中学からやっていた卓球部に所属していた。ところが2年次に「すごい美術の先生がいる」という情報に興味を示し、美術部に入部、そこで生涯の恩師となる美術教師・小原久男と出会う。

 

 小原との出会いは齋の美術の才能を開花させることとなり、2年次に県美術展洋画の部門で、3年次には日本画で受賞。2年連続、違う部門での受賞は大変珍しく新聞に記事が載るほどだった。このことが齋に自信を持たせ、美術の道を志すきっかけとなる。しかし、現実はそう甘くなかった。

 

 東京藝術大学(美術学部絵画科日本画専攻)に4浪の末、合格するも、入学時から生活費を稼がなくてはならず、美術系の大学予備校の講師として働きながら学生生活を送った。人に教えるということは、美術に限らず教える側がきちんと理解し、お手本を示さなければならない。そのため、自身の技術も向上し、卒業後も講師として生計を立てることが出来た。

 

 今回の展示作品は、高校2年次に県展で入賞した作品「Mの孤独」、高校3年次に制作した「自画像」と大学4年の時の作品「想い」。

 

 みなさんと同じ年頃に描かれた作品をぜひお見せしたいと思い、この3点を揃えました。

 

 

 

Mの孤独

Alone

1982年(F50号)油彩、キャンパス 作家蔵 

福島東高校2年次制作

福島県総合美術展 青少年育英賞 福島市長賞

 

自画像

Self-portrait

1983年(F8号)油彩、キャンパス 作家蔵

福島東高校3年次制作

 

想い

Thinking

1992年(F50号)日本画(紙本彩色) 作家蔵

大学4年次制作

 

第2章

画家・齋正機誕生

 

 齋正機は悩んでいた。大学院修了後、美術系の大学予備校講師として生計を立てつつ作品を制作していた。

大学院時代からの齋は、従来の「日本画」のイメージを大きく変えようとする様々な試みの流れを組み、「新しい日本画」(抽象画)を制作していた。

その試みを感じさせる作品の1つが、今回展示されている「滅びゆく虫達の鎮魂詩」だ。

しかしながら、齋がこの頃制作した作品は世間から評価されなかった。

評価されるためだけに絵を描いている訳ではないが、作品が評価され売れなければ、 画家として生活は成り立たない。

そんな画家としての生活を諦めるかどうか悩んでいた中、旅行で会津・喜多方を訪れる。

その時の齋の心の動きを表した文章を紹介する。

 

 

 会津の田んぼの中に“ポツン”とあった土蔵をみていた

 そのうち湧き水のように溜まった涙が目から落ちてきた。

 (綺麗だなあ。ただ、ただ綺麗だなあ。)

 土蔵のある風景をしっかりと見つめたのは小学校以来…。

 そして、私の原点だった。

 

 

 その感動から日本画制作の新しいモチベーションが生まれ今回展示されている「ツチイロノクラノキモチ」と「アカイヤネノキモチ」が生まれる

この2作品は、それまでの抽象画とは大きく異なり、齋自身が生み出した「新しい日本画」(具象画)だった。

これらは、喜多方市美術館主催「'98 ふるさとの風景展」において最優秀賞を受賞。

これを機に、名前も本名の斎藤正機から画名の齋正機へ変えた。

画家・齋正機が誕生し、齋にとっての“ふくしまものがたり”が始まった。

 

滅びゆく虫達の鎮魂詩

Requiem for the Dying Insects

1995年(変形50号)紙・顔料・箔 作家蔵

 

ツチイロノクラノキモチ

Ochre Storehouse Feelings

1998年(変形25号) ミクストメディア(紙、顔料、アクリル) 喜多方市美術館

喜多方市美術館主催「第4回 '98ふるさとの風景展」最優秀賞

 

アカイヤネノキモチ

Red-roof Feelings

1998年(変形25号) ミクストメディア(紙、顔料、アクリル) 喜多方市美術館

喜多方市美術館主催「第4回 '98ふるさとの風景展」

 

 

 

第3章

後援会発足

  

「もしかしたら福島で大きな展覧会をやるかもしれません。」

2017年4月、東京日本橋三越で開催された展覧会からの帰宅途中の新幹線の中で

齋正機から冒頭の言葉を聞いた齋藤和也・洋之親子(後の後援会会長と事務局長)は考えていた。

どういう形なら応援できるかと思案を続けた。齋藤親子は、齋の同級生を含む福島東高同窓生に相談。

その一人から提案があったのが後援会の発足だった。

 

 福島東高校に関わりのある役員を始め、長年、齋の作品をカレンダーに採用してくださっている東邦銀行・北村清士頭取(現・会長)と、

展覧会を主催する福島民報社・高橋雅行社長(現・相談役) を顧問として、

約60点以上の齋の作品を有する一番のコレクター、箱根・芦ノ湖 成川美術館の成川實館長を特別顧問として迎え、

2018年5月に齋正機後援会は発足した。

約100名の会員で始まった後援会は、2020年10月現在、500名を超え、さらに規模を拡大している。

 

 この章では、後援会員が所蔵する作品を紹介する。

 

 

桃畑ノムコウ

Through Peach Fileds

2016年(F6号) 日本画(紙本彩色) 個人蔵

参考:福島交通飯坂線(福島市)

 

拝啓 雪ウサギ様

Dear Snow Rabbit,...

2018年(F6号)日本画(紙本彩色) 個人蔵

参考:吾妻小富士(福島市)

 

拝啓 吾妻小富士様

 

名古屋ではもうハラハラと桜が散っています。

福島はかわいい桃の花が咲くころでしょうか。

 

いろいろなことがありましたね。

 

福島育ちの私には胸が張り裂けるぐらいですが。

住んでいる方々の気持ちは言葉で言えるものではないですよね。

 

生まれた時から成人まであなた様を何気なく見てきました。

もう雪うさぎはいますか。

桃の花が咲くと現れる”雪うさぎ” 種まきうさぎと呼ばれる”雪うさぎ”

 

いつかまた、春の訪れに喜びの息吹だけを感じられる日が来るのを願っています。

敬具 4月吉日 齋 正機 

 

残滓牧景 第三章 ~拝啓 吾妻小富士様~ より

 

 

※残滓牧景(ざんしぼっけい)…齋正機の造語。

“残滓”は記憶の残り香のようなもの、“牧景”は牧歌的風景の意味。

実際にある風景と、心の中にある風景を組み合わせて残滓牧景をつくり、絵を見る方のそれぞれの記憶で物語を紡いでいただくシリーズ。

現在、第四章まで続いている。

 

 

稔リノ磐梯山物語

Mt. Bandai Harvest Story

2014年(P20号)日本画(紙本彩色) 福島県労働保健センター

参考:JR磐越西線(猪苗代町)

 

拝啓、梨畑ヨリ

Greetings from Pear Fields 

2015年(F10号)日本画(紙本彩色) 福島県労働保健センター

参考:福島交通飯坂線(福島市)

 

 

「箱根・芦ノ湖 成川美術館」のご紹介

 

箱根・芦ノ湖畔に立つ成川美術館は、昭和63年4月(1988年)に開館。

現代日本画を中心にそのコレクションは4000点を超え、いまも増えつづけている日本最大級の個人美術館です。

文化勲章受賞画家・山本丘人の代表作150点余りを核に、平山郁夫の作品を40点余、堀文子の作品100点余を所蔵。

 

齋正機の作品は約60点所蔵しており、

2011年と2015年に齋正機の展覧会を開催しています。

館長である成川實氏は、齋正機後援会特別顧問を務めてくださっています。

 

2021年3月11日(木)〜7月14日(水)

「齋 正機展 新世代の日本画〜やさしく、あたたかな絵〜」が開催予定です。

 

成川美術館のホームページは、

http://www.narukawamuseum.co.jp です。

 

成川實 館長 (齋正機後援会特別顧問)
成川實 館長 (齋正機後援会特別顧問)

高台に立つ美術館全景
高台に立つ美術館全景
美術館庭園からの眺め
美術館庭園からの眺め

 

「2011年「齋正機展〜記憶ノ散歩ノ色〜」


 

「2015年「齋正機展〜帰り道シリーズ〜」


第4章

東邦銀行カレンダー

 

 東邦銀行の北村清士頭取(現・会長)は、毎朝の習慣として地元の新聞をチェックしていた時、

「淡い緑色の風景の中に赤い屋根の民家を描いた絵画」を見つける。

西武池袋本店の「齋正機展」を紹介する新聞記事(2010年3月26日付、福島民報)だった。

「これだ!」と思った頭取は、社員に観てきてほしいと依頼。 社員は会場で立ち尽くしたという。

「なんて優しい絵なんだろう」と。

こうして、東邦銀行カレンダー「齋正機シリーズ」は 2011年より始まり、2020年で10年目を迎えた。

 

※当展覧会では、10年分の作品より6点を展示いたしました。

 

穏ヤカナ午後ノ鶴ヶ城(会津若松市)

Quiet Afternoon- Tsuruga Castle (Aizuwakamatsuーcity)

2011年(F30号)日本画(紙本彩色) 東邦銀行 2012年カレンダー

 

柔ラカイ風ノ吹ク白水阿弥陀堂(いわき市)

Gentle Breeze- Shiramizu Amida Buddha Hall (Iwaki-city)

2012年(F15号) 日本画(紙本彩色) 東邦銀行 2013年カレンダー

参考:国宝 白水阿弥陀堂(いわき市)福島県唯一の国宝建造物

 

磐梯山物語(猪苗代町)

Mt.Bandai Story(Inawashiro-town)

2014年(F15号) 日本画(紙本彩色) 東邦銀行 2015年カレンダー

 

神旗ヲ待ツ〜相馬野馬追〜(相馬市・南相馬市)

Awaiting the Flags of the Gods- Soma Nomaoi Festival

(Soma Wild Horse Chase) (Soma-city, Minami Soma-city)

2015年(F15号) 日本画(紙本彩色) 東邦銀行 2016年カレンダー

 

1.夏の芝生は鮮やかだった。そこに旗を背負った騎馬武者達。

  緑に生えて美しい。古さを感じないどころかハイセンスだ。

2.ポ〜ン

  神旗は花火で高く高く打ち上げられた。


3.空中より落ちてくる旗を取り合う神旗争奪戦。

  相馬野馬追のメーンイベント。

4.風の強さ、打ち上げられた角度、旗の落ちる予想は簡単じゃあない。

  みんな、固唾を飲んで空を見つめる。


5.ゆっくりと…

  上空の風によって流されながらひらひらと宙を舞い神旗が落ちてくる。

6.手が届くような位置まで旗がくると…

  これは、もう“戦い”だ。


7.絶対取るんだという強い意志。経験で掴む勘の鋭さ。

  そして、運の良さ。

  この3つがないと、神旗は取れはしない。

8.神旗を掴んだ武者は丘にある本陣に一気に駆け登り、相馬のお殿様の御子孫に報告する。

  これが“神旗争奪戦”である。


齋正機HPブログより抜粋

相馬野馬追の取材③〜神旗争奪戦〜

2014年8月10日 ドローイング 作家蔵

只見線物語(会津美里町)

Tadami Line Story (Aizumisato-town)

2017年(F50号) 日本画(紙本彩色) 東邦銀行 2018年カレンダー

参考:JR只見線(会津若松駅ー小出駅・新潟県魚沼市)

 

とにかく只見線は美しいのだ。

福島県会津若松から新潟県小出までの135.2キロの日本一の豪雪地帯を走る只見線。

135.2キロだから思った以上に長い。

会津盆地の広大な田園地帯を走り、そして奥会津の山あいになり、朝は川霧、水鏡になって風景を映す只見川がある。

数あるローカル線の中でも只見線と奥会津の緑のハーモニーは絶品。

しかし、2011年の集中豪雨で3つの鉄橋が流されてしまうと、

会津川口駅から只見駅までは不通になってしまった。採算を考えると復興の道筋が困難だったらしい。

 

陰ながら復活を願っていたが、地元の人たちの大英断、2022年頃までには全線復旧が約束された。

僕はとっても嬉しい。

 

The Tadami Line is very beautiful.

It runs through Japan’s heaviest snowfall area for 135.2 kilometers,

from Aizuwakamatsu in Fukushima Prefetucure to Koide in Niigata Prefecture - quite a distance.

The train passes through the vast countryside of the Aizu Basin, arriving at the Oku Aizu mountains and the Tadami River with its morning fogs,

later reflecting the surrounding scenery in its watery mirror

Among other local lines, the scenic harmony provided by the Tadami Line and green Oku Aizu is unrivalled.

 

However, when three railway bridges were washed away by torrential rains in 2011, the line from Aizu Kawaguchi station to Tadami station had to be closed

From the economic viewpoint it seemed that reconstruction would be impossible.

 I was personally hoping for restoration and then the local people made a momentous decision - full restoration will completed by 2022

I’m delighted.

 

(Translated by Peter J. Scott and Hiro Saito) 

Online Exhibition Special Project No.1

 

 

桃花雪ウサギ(福島市)

Peach Blossoms- Snow Rabbit(Fukushima-city)

2019年(F15号) 日本画(紙本彩色) 東邦銀行 2020年カレンダー

 

第5章

子どもシリーズ

 

 齋正機の作品は鉄道シリーズを中心とした風景画が多いが、それと同じように齋が大切にしているのが、子どもシリーズだ。

2010年までの作品のほとんどは、これまでご覧いただいた鉄道を中心とした風景画だった。

しかし、 2011年、齋の作品群に大きく影響することが起こる・・・東日本大震災だ。

 

 当時、齋は愛知県名古屋市の自宅にいた。福島市の実家には母親がいたが,行くこともできずにもどかしさを感じていた。

「福島からどんどん子どもがいなくなっている。」

母親からの言葉に大きなショックを受ける。

日常に見かける親子たちの姿、公園で遊ぶ子供たちの笑い声、これがどれほど大切で愛おしいことであろうか。

大震災は齋に子どもの情景を想い描くきっかけを与える。

 

 ここで、齋を若い頃から知る佐藤美術館学芸部長・立島惠さんの言葉を紹介したい。

 「超大作、強烈な表現が氾濫する昨今。作品の大きさも、表現のあり方もおよそ大仰ではありません。

 けれど、自然の繊細な表情、人々のささやかな息づかいまでをもすくい上げようとするこの画家の表現精神は、

 今の美術界にとってとても尊いものだと私には思えるのです。」

 (画集「齋正機作品集~ふくしまものがたり~」より引用)

 

 ごくごくありふれた日常を描いた齋の子どもシリーズ。

今、大震災と原発事故を経験した福島のみならず、新型コロナウイルスに大きく影響されている全世界にとって、

最も必要とされているのは、このような何でもない日常ではないだろうか。

 

 

二人デ描ク

Drawing Together

2013年(F4号) 日本画(紙本彩色) 個人蔵

 

カブトムシ

Rhinoceros Beetle

2014年(F4号) 日本画(紙本彩色) 個人蔵

 

積ムコト

Building

2014年(F4号) 日本画(紙本彩色) 個人蔵

 

注射ノアト

It Didn't Hurt at all!

2018年(F6号) 日本画(紙本彩色) 個人蔵 

第6章

ふくしま物語〜桃源郷59の願い〜

 

 

 東日本大震災を経て、復興への願いを描いた作品。

2020年3月11日から始まった日本橋髙島屋の展覧会のために準備された。

それは今まで制作してきた作品の大きさをはるかに上回る作品であった。(180cm×600cm)

「ふくしま物語〜桃源郷59の願い〜」は、構想期間2年、 制作期間1年を費やし完成した。

 

 福島県の59市町村の形をした桜、海の間を走り抜ける常磐線、その上を大空高く優雅に羽ばたくカモメたち。

 

 齋正機の伝えたい想いは、作品そのものとそれに付随する「詩」に十分表現されているため、これ以上の解説は控えたいが、齋が常日頃から言っている言葉を紹介したい。

 

「僕に出来ることは、ふくしまに寄り添う作品を制作すること。そして、ふくしまに寄り添うこと。

それだけしか出来ないけれど、一生寄り添っていきたい。」

 

 

ふくしま物語〜桃源郷59の願い〜

The Fukushima Story- 59 Flowers of Xanadu

2019年(180.0cm×600.0cm) 日本画(紙本彩色) 

参考:JR常磐線(2020年3月14日、全線復旧)

 

『ふくしま物語〜桃源郷59の願い〜』

 

 

桃源郷とは何だろうか

 

いつでも行きたい風景

いつまでもいたい風景

  

苦にならない程度の風が吹き

動くものは

小走りすれば追いつけるぐらい

過不足なく様々な色があり

息を吸いこめば 穂のかな匂い

 

そんな情景が桃源郷だろうか

 

福島は59の市町村

これから十年 二十年 百年 千年 一万年

ずっと桃源郷であり続けるために

 

それが

ふくしまものがたり

 

              齋正機 

 

 

The Fukushima Story- 59 Flowers of Xanadu

 

 

What are the Flowers of Xanadu?

 

Scenes of beauty you can visit anytime 

Scenes of beauty in which to remain

 

Where gentle breezes blow 

Where things

Move at a comfortable pace

Where colors blend perfectly 

And there is fragrance in the air

 

Perhaps these are the Flowers of Xanadu?

 

There are 59 districts in Fukushima

For 10 years, 20 years, 100 years, 1,000 years, 10,000 years,

We pray these Flowers of Xanadu will continue 

 

That is

the Fukushima Story 

 

            Masaki Sai

                      (Translated by Peter J. Scott and Hiro Saito)

 

 

「オンライン展覧会」特別企画No.2

 

「ふくしま物語〜桃源郷59の願い〜」をもとに

映像作品を制作しました。

第7章

福島鉄道物語

 

 齋正機の作品の特色の一つが絵画と文章の融合だ。

それを最も体現しているのが、福島民報で連載中の「福島鉄道物語」である。

毎月1回、新聞一面 (第1回、第2回は、見開き二面)で齋の日本画作品と文章が掲載される。

2018年11月に始まった連載は、2020年10月で23回目となる。

 

 齋のあふれる鉄道愛を始め、国鉄(現在のJR)の機関士であった父親との小さい頃の思い出、

(名前に「機」の字が入っているのは、父親が機関士になった年に生まれたことが由来になっている。)

予備校時代の苦い経験、 画家になってからの制作秘話、そして何よりも福島を走る鉄道に注がれる想いを絵画と文章で表現している。

 

 通常、文章を付けることは、現代美術においてはよくあることでも、絵画の世界では珍しいことである。

なぜなら絵画の鑑賞は自由に観たり感じたりすることが観る人に委ねられるからである。

しかし、齋は作品によっては文章を付けることにより、より深まった表現が出来ると信じており、

2006年に東京の日動画廊で開催された展覧会「残滓牧景第一章」から絵画と文章の融合に挑んでいる。

その集大成のひとつとして現在も挑み続けているのが、この「福島鉄道物語」である。

 

 最後に、3年連続で選ばれている凸版印刷株式会社制作のカレンダー、ポストカード、

画集「齋正機作品集~ふくしまものがたり~」などを紹介している。

これらは、齋正機後援会ホームページから購入することも可能なので、ご興味ある方はご覧いただきたい。

 

 

最後までお付き合いいただき、

ありがとうございました

文責:齋藤洋之(齋正機後援会事務局長)

 

 

福島鉄道物語第1回

〜夕日の飯坂線「紅イ橋」〜

2018年11月1日 福島民報

参考:福島交通飯坂線(福島市)

 

1. 思い入れ

 

 絵を描く感覚は不思議だ。長い間、描いているけれど・・慣れない。(全く・・プロとしてどうなんだろう)と思う。

これでも高校時代から画家を志し研鑽を積んできたつもりだ。

大学時代からずっと日本画を描きながら美術系大学の受験生を教え、40歳で画家に専念した。

いつの間にか生業(なりわい)にしてから10年以上が経っている。

 

「絵は慣れたらおしまいだよ」と画商さんから言われる事もあるけれど、さすがに私の要領の悪さは始末に負えない。

今日は朝から新作のため、下図を(ああでもない、こうでもない)とスケッチブックに鉛筆の線を遊ばせていた。

でも頭の中のどこかがすでに白旗を挙げていて、集中力は決して長く続かない。

 

(これはスペシャルコーヒーを作るしかないようだな)

スペシャルといっても挽いてないコーヒー豆をミルで挽いて淹れるだけで特別な逸品ではない。

行き詰まった時のルーティンみたいなものである。

 

 

 豆を挽いていると、僕の携帯が遠慮がちに揺れた。

(見覚えのない番号だな)と思ったが、少しだけ丁寧に出てみた。

「先生、先生は鉄道を描きますよね。C電鉄を描いてみませんか?」と老紳士の低くて柔和だけど大きめな声がした。

「C電鉄ですか・・?」とあまりにも話が唐突だったので、少し驚いた声で答えた。

 

しばらく聞いていると、この老紳士は電鉄の詩を作るぐらいのファンらしい。

「まだ一度も取材をしたことがないので、すぐには・・でも興味はあります。」と含みを残し電話を切った。

(スケッチだったら何でも描けるけど、でも日本画にするには・・)

素晴らしい絵にするためには思い入れがたっぷり必要だ。昔から僕はそう信じている。

(描いた内容をも超えた何か・・人の心に飛び込む何か・・を掴まえなければ素晴らしいとは言えないよな)

 

そんなことを考えながら、先程挽いたコーヒー豆をドリッパーにセットして、細い口のポットでお湯を入れ始めた。

心地よい香りが部屋いっぱいに広がったが、老紳士の熱量の余韻は抜けなかった。やっぱり僕にとって思い入れがある鉄道は飯坂線だろうなぁ・・。

 

 

 

2. 飯坂線

 

 福島交通飯坂線は福島駅と飯坂温泉駅を結ぶ約10キロ、全12駅のローカル線である。

今では住宅や建物が多くなったものの、昭和の頃は10キロの道筋に、桃畑、りんご畑、梨畑があり、短い路線だが乗っているといろいろな風景に出会うことができた。

幼稚園の通園から始まり、小学校の遠足、福島市街に出掛ける時、中学校では自転車で並走したことも何度かあった。本当の意味で慣れ親しんだ鉄道である。

 

それどころか、人生の転機もだったな・・。そう、二十歳で美術系予備校に行くため福島を離れ、東京に出発する時も飯坂線。もうすでに2浪目が終わっていて、3浪目からの東京行きだった。

 

 

 右手と左手に一つずつボストンバック持って岩代清水駅のホームに立った僕は、東京で生活する不安と3浪する情けなさで一人うな垂れていた。

このままだとこの駅には二度と帰って来れないなぁ。追い詰められた心境だった。

ホームの前に広がるいつも通りの田んぼと飯坂電車だけがエールを送ってくれている気がした。

 

何とかその2年後、結果を出して帰ってくることができたが、岩代清水駅で荷物を持ち、それまでのいい加減さを反省し、不退転の決意でホームに立ったあの時を忘れることができない。

 

 

3. 紅い橋

 

 いろいろなことを考えていたら、せっかく入れたコーヒーを飲み忘れていた。

一口、ゆっくりと口に含むと(あ・・あの紅い風景、橋、飯坂線・・)脳の物置にしまっておいた記憶が急に押し出されてきた。

(あれは少し寒い秋の日だったなぁ、透き通ったあの日・・)

 

小学校五年生の時だった。

学校から帰ると、自転車で20分も掛かる松川グランドで遊ぶことが流行った。

河川敷のグランドの方がどこよりも広く気持ちがよかった。場所取りをする必要なく野球もできた。

ただ問題があった。時計がないこと。楽しすぎて時間を忘れてしまうことだった。

誰も腕時計なんて持っているはずもなく、空の明るさで時間を推測する。

 

記憶に残るその日は、見事なまでの快晴で、空気が澄み切って遠くまで見渡せた。

永遠に遊んでいられるような明るさを持っている奇妙な日だった。

母との約束帰宅時間は5時半だったが・・遊びに夢中になりすぎていた。

気がついたときにはもう時を回っているようで約束時間をとうに過ぎていた。(また怒られるなぁ!)と途方にくれた。

 

 

(帰ろう!)川沿いのサイクリングロードを母の怒った顔を想い浮かべながら自転車のペダルを全力で漕いでいた。

上松川橋の見えるあたりで電車の甲高い汽笛が聞こえた。

顔を上げると目前は紅の風景、「赤い・・」思わず声が出た。

松川は真っ赤に燃え、空は珊瑚色掛かった朱色で透き通っていた。

涙が出るぐらいの無垢な美しさで、自転車を止めて、夕日に走る飯坂電車と家路に急ぐ人々を眺めた

なんだか時間も風景も止まってしまった気がする不思議な情景だった。

 

(こんな永遠な世界を絵にできたら・・)と小学5年生の僕は思った。

(いつか絶対絵にしよう)と心に誓った。

そして、暗くなるまでその風景の中に溶け込んでみた。

まばたきする度に空は紅く紅く、そして心深い所に刻まれていく。

 

 

4. 予感

 

 その日、帰ってから母に叱られたかどうかは覚えていない。

ただ、飯坂線上松川橋の夕焼けは、もしかしたら絵描きになろうとした出発点になる情景だったような気がする。

それなのに40年忘れていたのは、この美しさと普遍性を絵にすることが本能的に時期尚早と思ったためだろう。

 

(日本画にする時が来たんだな)

窓の外を見ると、秋の日差しに柿の葉が色付いている

葉っぱが不規則なリズムで揺れる姿を眺めながら(引き出しを開けてくれた老紳士に感謝・・あの眠っていた赤い色彩まで蘇らせてくれたのだから)と一人うなづいた。

 

心の準備はできた。

そうなれば下図も夕方には終わるだろう。

カップに半分ほど残っているコーヒーを口に運ぶと、もう日本酒の燗よりぬるいぐらいになっている。少し苦みはあったが、味は落ち着いていてまろやかだった。

 

 

 

 

福島鉄道物語第13回

〜東北新幹線と富士山「ヨグ来ダネ」〜

2019年12月16日 福島民報

参考:東北新幹線・福島駅(福島市)

 

「すごい快晴だなあ。」

横浜ではまだコートがいらない。でも今日は違っていた。白い息が証明するかのごとく、冬を感じる朝だ。

 

 

 今日は帰福である。

(今回、福島での大事な用事がたくさんある。せめて行きの電車と新幹線はリラックスしよう)

そんな理由で、予定より一時間早く朝6時半ぐらいに自宅を出発した。でも電車はすっかりギュウギュウである。

東京駅に到着すると、もう通勤する人並と外国人観光客で、これまたいっぱい。

(ゆったり東京駅であったかい朝食を!なんて甘い考えだったなあ)

それに駅構内の改装工事で、カフェや蕎麦屋もシャッターを下ろしたまま。

 

 

 キャリーを引いてしばらくはウロウロとオアシスを探したが、諦めてキヨスクに入った。

おにぎり二つとお茶を買って並ぼうとした時、僕の前には不安そうにキョロキョロする男の子がいた。

(幼稚園年長ぐらいかな。この子の母親はどこに行ったのだろう)

話し掛けようかと思ったけれど、このご時世、声の掛け方が難しい。

(ヒゲ剃ってくれば良かった。声掛けても不審人物に見られませんように・・)と願いながら声を掛けようとしたとその時、

「たっくん。ゴメンね。何買うか決まった?」と赤ん坊をあやしながら母親が戻ってきた。

「うん、たっくんはおにぎりのシャケ。あーちゃんは泣き止んだ?」と高めのかわいい声がした。

(な〜んだ。近くに母親がいて良かった)そう思い、レジで精算を終えた。

 

 

 それから15分ぐらいで東北新幹線に乗り込む。

(よし窓側に座れた)重い荷物も何とか棚の上に乗せて、おにぎりとお茶、そしていつも通りのハガキサイズのスケッチブックを用意した。

そう、一人の時は必ず新幹線車窓スケッチをするのだ。やがて東北新幹線は東京駅を出発、同時に朝食を食べ始めた。

新幹線は一旦地下に潜り日暮里あたりで地上に出る。再び太陽を感じた時にはもう食べ終わって、車窓の観察人になった。

(田端の擁壁工事が進んだな・・飛鳥山公園もすっかり冬支度・・あの高校の新校舎もうできた・・)などと眺めていた。

 

 

 すると戸田市に入ったあたりで後ろから聞き覚えのある声がする。

「ママ、富士山がみえるよ。」

「たっくん、富士山じゃないよ。富士山は大阪のじいちゃんちに行く青い新幹線から見えるんだよ。」と会話している。

(あれ、さっきの親子だ。偶然だな)気付かれないように確認すると、やはりそうだった。

「ねえ、富士山があるよ。」とたっくんはもう一度大きな声で言う。

すると赤ん坊のあーちゃんがびっくりして泣きだしてしまった。

「たっくん、大きな声出さないで。」母親はあーちゃんを抱っこして、あやしながらデッキの方へ行ってしまった。

「富士山あるのに。」とたっくんは小さな声でつぶやいた。

 

 

(たっくん、君は正しい。あれは富士山。天気が良くて、コンディションが良ければ、東北新幹線からでも、こんなにはっきり見えるんだ。たっくんはとっても運がいいね)と言ってあげたかったけれど、このご時世、話掛けるのが難しい。

すると、母親があーちゃんをあやし終えて戻ってきた。そして、何やら鼻息荒く興奮している。

「たっくん、ゴメン。富士山見えた。あれは富士山。たっくん、すご〜い。」と言いながら頭を撫でた。たっくんは満足げな声で言った。

「ね!富士山でしょう。」

そのやり取りになんかすごく嬉しくなり、小さくガッツポーズした。

 

 

 空気がとても澄んでいて、大宮を過ぎても富士山ははっきりと見えた。

僕はスケッチブックを開いて、富士山を描いた。そしてたっくんとお母さんのやり取りを想像で描いてみた

よっぽど振り返って親子をスケッチさせて貰いたかったけれど、それはこのご時世、やっぱり難しい。

 

 

 

福島鉄道物語第15回

〜桃の花の風景「阿武隈急行ノ春」〜

2020年2月17日 福島民報

参考:阿武隈急行(伊達市梁川町)

 

 こんなことを思い出した。これは四十年も前のことだ。

 

 

 その日は桃の花が満開だった。それも全世界が安息日に思えるような平穏な休日、心地よい気品で時間さえあくびしそうだ。

中学生になったばかりだった。そんな外の陽気とは真逆に、僕は慣れない坊主頭でいろんなことで思い悩んでいた。

いやだな、中学校のテストって順位でんだよなあーとか、なんで背が伸びないのだろうーとか、僕はいっつも鼻詰まりだなーとか、今から思うと典型的な取るに足らない思脊期の悩みだ。

 

 

 頭から黒い煙が出ている、そんな僕を見かねたのであろう、父は少し強引な感じで僕をドライプに誘ってきた。

「正機、行ぎたいとこあるがら、行ぐぞ?」「どこさいぐの?」「良いどこだ・・。帰りにラーメン食わしてやっから」

例のごとく目的地を言ってくれないパターンである。行き先不明のドライプには警戒したが、ラーメンは食ぺたい。

「ん〜どうしたらいいべ」。僕のはっきりしない態度に、父は思い切り鼻をかんでから決定打を放った。

「新しくできた・・・うまいどこだぞ。特にチャーシューメンが」「んん・・だったら・・」。

僕はいそいそと父のカローラの助手席の人になった。

 

 

 連れて行かれたのは、梁川町(現在の伊達市)付近の鉄道だった。や正確に言うと線路は敷かれているのだが、まだ列車は走っていないらしい。

「この線路って何線なの?」「丸森線だ」と父が笞えた。

「槻木がら丸森までで、福島県側はまだ走ってねえ」と少し不機嫌な声で付け加えた。

「もうすぐ走んの?」「どうなっか・・わがんねえな。この鉄道ができっと、便利なはずだがな」

線路を見ながら父が言った。それ以上は語らず、ただ線路を見渡していた。

 

 

「正機、鉄道を作るっていうのはな、いろんなふうに難しいってことなんだ。いろんなこと考えなきゃいけないし、いろんな説得しなぐちゃなんねえ。そして何と言っても・・い、いろんな・・赤字・・はっはっ・・はっくしょん」

その後、何度も何度も激しいクシャミを繰り返し、ハンカチでは間に合わなくなってティッシュを取りに車に戻っていってしまった。

 

 

 残された僕はその線路を遠くまで目でたどった。すると桃畑の花が満開で、春のさまざまな花々も負けじと咲いている。桃の花の季節はきれいだべ・・レンゲの色もいい色だべ・・。ヒバリの春の声が高い空からずっと降り注いでいて、心の何かが浄化されていく。

こんな場所、電車走ったらいいべなあー。目を閉じると鼻の悪い僕でも柔らかい匂いを感じた。

「正機、いつまでもぼげっと誂めてんじゃねえぞ・・ほら、チャーシューメン食いに行くぞ」。そう言って車から手招きした。

 

 

 この会話の丸森線とは阿武隈急行のことだ。

丸森から福島までつなげる計画はなかなか一筋縄ではいかなかった。

全線が第三セクターで開業したのはそれから数年後、高校を卒業して僕がもう福島を離れてからだった。

 

 

 鉄道を日本画で描き全国をスケチ取材しているのに、地元の阿武隈急行にはなぜか足が向かなかった。

実家に近い線だからいずれ・・と思ってしまったのが一番の要因である。

でも、2014年、伊達市梁川美術館で作品展の機会があり、やっと阿武隈急行に乗ることになった。乗ってみると、もうすっかり地域の足として定着して当たり前のように存在している。途中、明確には分からなかったが、父と来た地域も通ったりもした。

 

 

こんなに美しかったのか・・。桃の花が満開だ。

これは・・すこい風景だ。もっと早くスケッチ取材すべきだったなあ・・。

桃やリンゴの花が咲く頃の阿武隈急行の車窓は全国でも屈指の美しさだ。

また、福島の美風景の実力に驚かされた。

 

 

 

福島鉄道物語第21回

〜チンチン電車と中合デパート「福島街物語」〜

2020年8月16日 福島民報

参考:福島交通飯坂東線(福島市)

 

「チンチン電車乗りたい?」と母が言った。

「うん。乗りだい!」興奮して大きな声が出た。乗るのは2回目だ。

「福島駅前で乗って、2つ目の上町で降りるよ。」「うん。」

 

 

 かつて福島市には路面電車(=チンチン電車)が走っていた。

幼なすぎて記憶がおぼろげだけれど、路面電車に乗って中合デパートに行った思い出がある。

その頃の中合はまだ駅前ではなく大町にあって、屋上にあるミサイルタワーと回転飛行機が魅力的だった。

ただ福島駅から大町までは歩いて10分もかからない。だから電車に乗ることは珍しいことだ。

 

 

 駅前停留所で電車に乗り込むと、運良く運転席近くに立つことができた。

(うわーハンドルレバーがある。かっこいい)すぐに運転手が来て、チンチンという音を鳴らして運転し始める。

しばらく運転手気分で見ていたが、すぐに信号機や渋滞によって動かなくなった。

周りを見渡すと、アーケードがある商店街は平日なのに人がたくさん歩いている。

 

 

 実は先週、母と兄と3人で中合デパートに来ている。僕はその時がデパート初体験だった。

(今日は動く階段、大丈夫がなあ)前回はエスカレーターに乗るのに戸惑って、大人に助けてもらっている。

(でも今度こそちゃんと乗るんだ。あと・・あの白いうずまきをまた食べられるかなあ)

初めて食べたソフトクリームの味は素晴らしかった。夢にまで出てくる美味しさだ。

 

 

そして中合の屋上遊園地はまさに天国。亀や魚、乗り物、ゲームなど僕の好きなものがすべて詰め込まれていた夢空間だった。

「今日は屋上も行ぐ?」「母さんの買い物中、おとなし〜ぐ、してだらね。」と母は少し厳しめに答えた。

お買い物で長く待たされるのは嫌だけれど、ソフトクリームを食べることができて屋上遊園地で遊べると思えば我慢ができる。

「うん。おとなしくするね。だがら・・」と母にお願いした。

 

 

 電車は相変わらず動いては止まるを繰り返す。それなのに前の電車に追いついてしまった。

「やっぱ、歩った方がよがったね。」と母は言ったが、僕は長い時間電車に乗れて大満足だ。

15分もかかって上町に着くと、たくさんの人がそこで降りた。

いよいよデパートだ。

僕はこれから始まるドキドキに、気持ちを抑えきれず母の手をぎゅっと握りしめた。

 

 

 これは街がとても賑やかな昭和45年ぐらいの記憶。

翌年には路面電車は廃止されている。

その2年後、中合は現在ある駅前に移転するのである。

もう路面電車に関しては(チンチン電車、福島にもあったの?)と言われるぐらい覚えている人も少なくなった。

 

 

 そして、今年の8月31日、中合デパートも146年の営業を終了する。

移りゆく時代に寂しさを感じながらも、福島市を盛り上げ、僕のいろいろな思い出を作ってくれた中合に感謝である。

 

 

 ほんとうにお疲れ様でした。

 

 

 

 

 

カレンダー・ポストカード・作品集のご案内

 

凸版印刷株式会社制作・齋正機作品集【あの街、この村】

 

凸版印刷が毎年制作している「トップカレンダーコレクション」に3年連続で採用されています。

ここでは、3年分のカレンダーの表紙をご紹介いたします。

カレンダーについての詳細は、後援会HPのトップページをご覧ください。

 

齋正機オリジナルポストカードセット

6枚セット・全4種類

「ふくしまものがたり」・「あいづものがたり」・「こどもシリーズ1」・「こどもシリーズ2」

ポストカードセットについての詳細は、後援会HPのトップページをご覧ください。

 

齋正機作品集〜ふくしまものがたり〜

約140点の日本画、パステルと水彩で描く色ドローイング、鉛筆で描いたドローイングを掲載。

齋と同じく福島市出身で、福島東高校の後輩(12期生)、俳優なすびさんとの対談、「ふるさと福島への想い」も収録。

 

詳細は、株式会社求龍堂のHP、もしくは、後援会HPのトップページをご覧ください。 

 

 

 

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